バラには棘、が当たり前でなかった日本の保育園を今想う2019/Jul/20

気がつけば1年。
ちょくちょくサボりつつもなんとか通ったオランダ語講座で年間終了書ならやるものをいただきました。
バラの花が一輪添えられています。

以前に書いたのですがここの先生は皆ベテラン教員のシニアボランティア
花はもちろん先生が自腹で用意してくれたもので・・・
その心遣いが粋すぎる、と本当に頭の下がる思いです。

その真紅のバラは
「いかにも薔薇ですが、何か?」
的主張感のある、鋭利な棘をまとった薔薇らしいバラ(?)だったのですが・・・

そういえば日本の保育園で触ったバラには棘がなかったなあ、
と自分はバラを見る度に思い出すのです。

うちのチビは年長さんまで4年間、保育園に通っていました。
節分、ひなまつりに子供の日、七夕にプール、運動会にクリスマス、卒園式をかねた発表会、・・・毎月のように季節の行事の紹介や工作、行事がありました。
保育園では「食育」にも力をいれていて、毎日「今日の旬の食材」のおはなしがお昼ご飯の時にあったそうです。
季節の移り変わりと日本の行事、食べるものへの感謝と知識・・・そんなことを保育園でずいぶん教えてもらっていたなあ、と。
日本の季節の行事とすっかり縁遠くなってしまった今、より強く思い返してみたりするのです。

その保育園では数ヶ月に一度「花育」として「お花の日」という不定期の催しもありました。
季節の花を数本、子供たちがオアシスに挿して活けて持って帰るのです。
お花代、として100円が徴収されていましたが、1本でも100円では売ってはないだろうと思える花の数々、オアシスも無料ではないはずの中、どうやって運営していたかは未だに謎です。

「薔薇のトゲは取ってるから大丈夫ですよー。
でも残ってるかもしれないから一応見てあげてくださいね。」

と先生。

「お花の日」は特に開催が推奨されているようなものではなく、「本物のお花に気軽に触れる機会をこどもたちに」と先生の提案によって実現した企画と聞いたことがあります。

このイベントのために先生がこつこつ一つずつ、トゲを手折っていたのか…と。
その様子を思い浮かべると、申し訳ないような、なんともいえない気持ちになったのでした。

その保育園の先生方はどの先生もとてもこどもに優しい、明るいいい先生方だったのですが、数ヶ月に一度の頻度で誰かが体を壊したり、離職したりしていました。

「○○先生が・・・体調不良のため今月からお休みをいただきます」

この報告を何度聞いたかわかりません。
その度に「またですか?」という不安を抱きつつも、保育園の運営側含む先生方が皆一生懸命に子供たちを見てくれているのはわかっているので、その憤りをどこにもやれない・・・そんな親は自分だけではなかったように思います。

数十人のちびっこ達と遊び、トイレや食事、行事の練習、工作やお遊戯・・・保育士さんが普通でも激務なのは容易に想像できる中で。
驚くほど薄給での長時間労働、公務員のような安定も昇給や待遇アップの転職も望めなく。
「こどもがかわいい」「成長を見守る」喜び、やりがいをあっさり超えてしまうのではと思われる「安全へのプレッシャー」「教育的義務感」・・・

保育園の先生方のどれだけの無理のおかげで、この環境はなりたっているのか。

うっすらそんなことを感じつつも自分は自分のことで余裕がなく、時は過ぎていったように思います。
見ないふりをしていたのかもしれません。

オランダだったらどうだろう、とちょっと想像してみます。

「バラにはトゲがあるものだし、怪我するのもそれも経験」

もしくは

「他に色々な花があるのに、わざわざそんな時間がかかる花を選ぶ必要ない」

なにせ自己責任&実用主義の国。
そして「働くには必ず対価」でばっさり・・・だと思います。
それが悪いとは思いません。対価を求めるのは仕事をしている以上当たり前です。

でも

「バラなんか使わなきゃいいのに」
「そもそも忙しいのにイベント増やさなきゃいい」

そんなふうにあっさり切り捨てられてしまう世界は効率的かもしれないけど、どこか味気ない。

「子供たちに普段できない体験をさせてあげたい」
教育的向上心、時には保育士としてのプライドもあるかもしれませんが、
そんな損得で切り捨てられない思いが「倒れるほど忙しい中でバラのトゲを1つ1つ手折る」というコミカルにすら見える作業にこもっているような気がするのです。

「思いやり」と「ブラック」のはざまにて。
市民の「お金に換算できない貢献」によってどれだけの多様性や文化的情報に満ちた環境が守られているのか。
保育の現場に限らず、自分はこの「割り切らない不器用さ」と「こだわり」的なものこそ、様々な庶民の生み出す日本の良い面、安全であったり、クリーンであったり、美味しいごはんであったり、そんな基盤を育んでいるような気がしてならないのです。

決して裕福ではない、ギリギリで生活している庶民の寛容さと美意識の高さ。
自分自身に余裕がなくても他人への配慮や思いやりを忘れず社会に進んで貢献する人、が一定数いること。

もちろん全体に当てはまるわけではないですが、これは日本に特有な気がしています。

ありがたく、美しいと思うと共に。
この思いやりや理想の高さを持った人達が、体をぼろぼろにして働いても報われない、志や情熱だけでしか継続不可能な仕事の穴を埋めていきそして壊れていく・・・のではなく。
普通の暮しができていて、さらに社会を良くすることにエネルギーを使うことができれば世の中はどれほど良くなるだろう。

今の日本では色々なものが “思い” によってなんとかギリギリ保たれてるような気がしてならない。
そしてそれを当然のものとして利用しているといえないだろうか。

そんなふうに思うわけです。

もう少し言いたいことを付け加えると

両親が四六時中働かないと生活回らないのも、
保育所足りないのも、
安定した身の上の人が優先的に保育所に入れる制度も、
保育所がブラックすぎる労働条件でなければまわらないのも、
いろいろ社会システムがまずすぎるだろ
そりゃこどもも減るわ

そんな思いです。
(感謝の気持ちを書くはずが結局怒っている・・・なんでだ・・・)

バラを手にしてふわっと巡る複雑な気持ちをよそに。
ちびっこ達はもちろん無邪気にワイルド。
ばっさーっと花を引っこ抜き、ハサミは慎重に、でもぐさーっとオアシスにぶっ刺して、はい、出来上がり。

・・・ロマンもバランスも何もないけど、
2歳から5歳、まあそんなもんです。

チビはバラを保育園でもらったことを覚えているだろうか?
でも少なくとも、自分は妙に覚えてるなあと。

ふといろいろな思いの巡った(そして勝手に切れた)夏の日でありました。

2019/Jul/20
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